上海まち歩き ~中国文化人の家

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ローカルな路地の先に

虹口区の西部、旧日本人居住地の中心に位置する「魯迅故居」。言わずと知れた中国の文豪・魯迅は、この家で晩年を過ごした。

魯迅は1881年に生まれ、98年には勉学のため南京に移っている。南京では優秀な成績を修め1902年に来日、東京で日本語を学び、医学を志し04年に宮城県仙台市の専門校へ進学。その後再び東京で執筆活動に勤しむも、09年に帰国、杭州、北京で教壇に立ち、アモイや広州を経て27年、上海にようやく居を構える。

周辺は、ローカルな住宅街そのもの。賑やかな喧噪を逃れ、路地を入った突き当たりが彼の家だ。紹興市にある魯迅の生家が、重厚な中国伝統建築であるのに比べ、こちらは赤茶けたレンガ積みの外壁に、緑色の屋根というコントラスト。外国の影響を受けた建築物が多く造られた、当時の文化を物語るようだ。

在りし日の姿が浮かぶ

3階建ての木造集合住宅はいかにも「石庫門」という造り。1階当たりの面積が狭めだが、階段の踊り場から入る小部屋など、随所に工夫が凝らされる。1階は応接間とダイニング、2階には魯迅の書斎、夫婦の寝室に客間が置かれ、3階が愛息・海嬰の寝室。1階の応接間は、親交の深かった日本人・内山完造と度々ここで会い、互いの思想を語り合ったと言われる。

すべての部屋に置いてある家具や食器は、魯迅が亡くなったその日のままに復元したという。魯迅がここへ越してきたのは33年。36年に亡くなるまで、わずか3年の時をここで過ごしたことになる。その間の著作に、中国の伝説や神話を集めた「故事新編」がある。

正門から見て裏手に当たる廊下に作られた窓は、そこから魯迅が顔を出して、隣家の住人と談笑することもあったかもしれない。

魯迅故居
住:山陰路132弄8号
営:9時~16時
¥:8元/人

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半生を過ごした家

〝上海で最も優雅な通り〟と呼ばれる武康路に、巴金の旧宅はある。こう呼ばれるのは、かつてフランス人が多く住み、異国の情緒を漂わせる街並みであったためだ。その中でも際だって大きい旧巴金邸は、かつてソビエト連邦の貿易事務所が置かれていた建物だという。

巴金がこの家で暮らしたのは、1955年からの50年間。2005年に101歳の生涯を閉じるまで、実に70以上の著作がここで生まれた。その多くが散文や随筆で、後半生は小説作品の創作から少し離れ、本人曰く〝遺作〟の『随想録』など、人生を見つめる文章をしたためていった。

多国籍に渡る蔵書

巴金という筆名は、フランス留学時代の友人の姓と、その友人が自殺した時に翻訳を手掛けていたクロポトキン(中国名:克魯泡特金)の2つを合わせたもの。中国の文壇での地位を不動のものにしたと言われる『家』、『春』、『秋』の『激流三部作』など長編・中編小説は、巴金がフランス留学を終えて帰国し、日本へ再び留学するまでの20歳代に書かれている。

邸内に足を踏み入れるやいなや、圧倒されるのはその蔵書の数。ほとんどの部屋に書棚があり、留学歴があるためか、日本語やフランス語の書籍も多い。しかもその大部分を読了しているというのだから、また驚きもひとしおだ。また巴金が晩年に好んだのは、1階東側のサンルーム。この部屋の古いミシンを文机に見立て、読書や執筆をしている姿を映した写真も飾られる。『随想録』もこのサンルームから、庭の白玉蘭を眺めつつ筆を進めたのだろうか。

巴金故居
住:武康路113号
営:10時~16時(月曜休み)
¥:無料

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人間の愛憎を描く

中国を代表する、上海生まれの女流作家・張愛玲。英語名をアイリーン・チャンといい、1940年代に『金鎖記』や『傾城之恋』、『半生縁』、『海上花列伝』などの作品を次々と上梓。

両親は彼女が10歳の時に離婚しており、しばらくの間は父に付いて、市内で暮らした。しかし父の再婚相手との不仲などを理由に18歳で出奔、母のもとに身を寄せ、現在旧居として公開されている「常徳公寓」に移る。母は母で離婚前からヨーロッパなどを遊学し、アメリカから恋人を伴って帰国。人間の愛憎をつぶさに見て育った張愛玲の作風は、一貫して人の愛やしがらみを通し世の中を映し出すものとなり、当時の世間の驚嘆と関心を煽った。

旧居はブックカフェに

42年に中国香港の大学を辞め上海に戻ると、母とともに伯母の所有するこのアパートの5階に入居。このほか、延安西路や康定路にも居を置き、55年に中国を離れアメリカに移るまで最後に住んだのは、人民広場近くの黄河路だった。

ここで書かれた著作の多くは熱狂的なファンを生み、諸外国で翻訳される。『海上花列伝』は98年に『フラワーズ・オブ・シャンハイ』として、『色・戒』は2007年に『ラスト・コーション』の題で映画化。後者は同年の「ベルリン国際映画祭」でグランプリを受賞、原作者である張愛玲の名をも全世界の若者に知らしめることになった。

現在常徳公寓の1階には、張愛玲の著作を多数取り扱うブックカフェがオープンし、彼女のファンが日々集う。読書会が催されたり、文学者の旧居ツアーの参加者が訪れたりと、常に賑わっている。

張愛玲旧居
住:常徳路195号
営:11時~22時
¥:コーヒー50元など

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漫画と挿絵の始祖

中国の挿絵・漫画の祖とされる豊子愷は、1898年浙江省嘉興市に生まれ、漫画家・翻訳家・文学者と多彩に活躍した。幼い頃から美術に親しみ、地元の師範学校で絵画を学んだ。1921年には日本に渡って絵画や音楽、日本語はもちろん、英語やロシア語までもを修得。叙情的な美人画で知られる日本の画家、竹久夢二の絵に大きな影響を受けた。

翌年留学から戻った豊子愷は、地元の中学校で美術を教え、上海大学や復旦大学などでも教壇に立ち、復旦大の校歌も手掛けている。そして49年、現在旧居として知られる陝西南路の老洋坊アパート「長楽村」に移り住む。

日本の古典に魅せられる

ここには、晩年である75年まで住んだ。8人の子どもがいたにしては少々手狭だが、南に面した2階のバルコニーを「日月楼」と名付け、ここで過ごすことを好んでいたという。特にこの頃は翻訳・執筆に力を入れていたようで、壁には豊子愷が日本の古典作品『源氏物語』の翻訳作業に取り組んでいる姿を映した写真が掛けられている。豊子愷が62年頃に著した散文に、こんなものがある。「若い頃、東京の図書館で『源氏物語』を手にした。すべて文語で書かれており、まったく解読できない。与謝野晶子による現代語版を読み、中国の『紅楼夢』と共通するものを感じた」。

また豊子愷の生家であり、幼少期を過ごした嘉興市の旧宅は「縁縁堂」と名付け、『縁縁堂随筆』など数々の著作で幼少期への思いを綴っている。なお、同著は日本の漢学者・吉川幸次郎によって日本語に訳された。

豊子愷旧居
住:陝西南路38弄93号
営:10時~16時半(月火曜休み)
¥:無料

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サイレントの女王

1910年上海市に生まれ、20年代のサイレント(無声)映画黄金時代に、一世を風靡した女優・阮玲玉。父親が早くに他界したため、母親は生活を切りつめて彼女を学校へ入れたが、16歳の時に映画デビュー、主演を飾り〝東洋のハリウッド〟と呼ばれる当時の上海映画界に入った。

阮玲玉が静安区新閘路のアパートに入居したのは、33年。阮玲玉の愛人であった実業家・唐季珊が彼女のために購入したものである。そして35年、睡眠薬を服用し自ら命を絶ったのも、このアパートの2階の部屋だった。25歳の時だった。前夫の金の無心や、スキャンダルとして彼女を追い回すメディアなどに疲れ果てたことが自殺の理由とされているが、詳しいことはわかっていない。いずれにしても、早すぎる死であったと誰もが口をそろえる。

世紀を超えて愛される

現在、この物件はすでに他者の手に渡っているため、内部観覧ができない。それでもこの小区「沁園邨」の門や塀には、彼女が暮らしていた事実を証明する碑が掛けられている。

25年の短い人生の中で、彼女が出演した映画作品は29本。後の争乱などでそのほとんどが失われ、現存するのは9本のみである。それでも、同じ建物の住人と思われる老男性によると、阮玲玉の熱狂的なファンは、80年を経てもなお欧米人を中心にいつまでも絶えず、この小区を訪れるという。

阮玲玉故居
住:新閘路1124弄9号
営:24時間
¥:無料(内部見学不可)

~上海ジャピオン2014年3月21日号

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