上海に飛び込んだ今と昔①:村岡健司さん

当時の夢:中国のスペシャリストになる
撮影場所:上海から鄭州への列車の中

夢の結果:中国人の気持ちがよく理解できるようになった
撮影場所:現在のオフィスのデスク



 「上海から河南省の鄭州に向かう途中の列車の中です。たしか丸2日かかったと記憶しています。テーブルの上のコーヒーは日本から持参したものですね。隣の席の中国人が『これは何という漢方薬ですか?』と質問してきたことを覚えています(笑)」

 時は86年の5月。当時26歳。日中経済貿易センターに入所して2年目で、輸出促進事業を担当していた。日本の設備を中国へ輸出することが主な業務だった。鄭州で開催する食品機械展示会の主催者としての出張で、列車に同乗した同僚が撮影したもの。この時が初訪中。学生時代から中国の文化の高さに憧憬していた。その憧れの中国の大地を初めて踏んだ「記念写真」だ。
 希望を胸に乗り込んだ中国だった。だが、憧憬は目に映った現実に裏切られた。「何もなかった」のだ。展示場がなく会場は倉庫を改造したもの。食堂のメニューは少なく似たようなものが数種あるのみ。鄭州で一番大きなデパートの中は真っ暗で、ケースの中にはポツポツと商品が置かれているだけ。「サービス精神ゼロ」の店員は呼びかけても振り向きさえしない。ただ広い土地があるだけの現実に、訪中以前の期待は「この国はいったいどうなるのだろう」という危惧、懸念にぬりかえられてしまった。
 毎日のように行われる「宴会」にも舌を巻いた。テーブルに並ぶ「白酒」を自分の胃におさめないために「ビールしか飲めない」作戦を計画したりもしたが、ビールがあまりにもまずく、結局白酒を飲んでいた。
 しかし、慣れないもてなしに閉口する一方で、中国人の人間性に惹かれつつある自分を感じてもいた。「中国人のもてなしの精神には懐の深さを痛感しました。そしてカルチャーショックを受けている私に、『この国はいつかよくなるからこれからも架け橋として頑張って』と励ましてくれたんです。古きよき時代の中国人の熱意に感動したことを覚えています」。
 帰国を前に、現地の人が「また必ず会おう。中国をもっと知って欲しいから」と駆け寄って来た。この言葉で、初訪中の衝撃は、「中国のスペシャリストになる」という広大な夢に変わった。
 帰国後は以前にも増して仕事に没頭した。89年には輸出促進事業から輸入促進事業に異動。毎日中国商品のクレーム処理の相談に当たっていた。中国側の悪い面が見えてしまうことも多く、時に「日中の仕事をこのまま続けていていいだろうか」という思いが頭をよぎることもあった。しかし初訪中時に決めた「夢」が挫折しそうになる自分を支えた。

 日中の架け橋を往復しつづけて丸21年。03年10月からは上海事務所の所長として現在に至っている。中国に進出する日系企業や団体の支援が主な業務。「進出支援とビジネスマッチングが仕事ですが、まあ、よろず相談所みたいなものですね」と目を細める。21年で大陸各地を廻り何万という中国人と出会った。いくつもの紆余曲折を経て、今では中国人の気持ちがよく理解できるし、起こりそうな問題も予測できるようになった。「没方法」を「有方法」にしようと常に前向きだ。
 今年の抱負は「あせらず、あわてず、あきらめず」。眼鏡の奥に光る瞳は、国境を越えた先を見ている。

<プロフィール>
村岡健司
日中経済貿易センター上海事務所所長
46歳
大阪府出身

~上海ジャピオン2006年1月6日発行号より

最新号のデジタル版はこちらから




PAGE TOP