氷点下2ケタの世界
僕が大連に行ったのは、2012年の3月。
発音がキレイと噂の大連とハルピンで迷ったのですが、旅行社の人に、ハルピンは寒過ぎて涙が止まらず、しかもまつげと頬に凍り付くと脅かされたんです。なにそれ怖い。
そうは言っても、大連の冬も氷点下10度くらいにはなります。
歩道に一部だけ雪が積もっているようなところを見つけて近付いてみると、なんと破裂した水道管から吹き上がった水が、空中で結晶化して積もっていたのでした。
友人と「大連スゲェ!」と騒いでいるところに、ロシア人らしき男性が半袖で通り過ぎ「ロシア人パネェ!」と2度盛り上がりました。
中国で日本の夏祭り
僕の留学先は遼寧師範大学。日本人が多いと聞いていたのですが、幸いというべきか、僕のクラスはもう1人いるだけだったので、会話は基本中国語でした。
隣国・韓国とロシアからはともかく、イタリアからの学生も多かったのは予想外でした。ちょうどイタリアの孔子学院との交換留学を進めていたようです。
そうそう、モンゴルでは子沢山な人が表彰されるとか、逆にウズベキスタンでは出生を制限するために強制不妊処置が行われたことがあるとか、いろんな国の人の生の声を聴けるのが楽しみでした。
僕は日中交流促進団体「大連留学生社団(通称DISA)」に参加していました。こういうのに参加すると内申に…って、そんなこと考えてませんよ?
活動の中でも印象的なのが「中国で日本の夏祭り開催」というもの。近くの中学校の校庭を貸し切っての開催は3000人以上が詰めかけ大盛り上がり。
そして人混みに酔ってしまう僕なのでした(苦笑)。
北国から灼熱の台北へ
最初は奨学金をもらって、上海の大学へ入る予定だった私。ところがある日「今年は予算カット」との連絡が。
もう自力で行く! と比較的手続きの楽な大学を探したところ、見つけたのが台北市の師範大学だったってわけ。もちろん自費留学。
しかし着いてみたら…8月の台北ですよ。北海道民が生きていけるはずがない~とうろたえる私を、迎えに来てくれた友人が車に押し込んで、留学生活が始まったのでした。
仲良しのクラスメイトはコスタリカにカナダ、イギリス人。それなりにしゃべれるようになるまでは英語でコミュニケーションするしかなかったので、ずいぶん英語力も伸びた気がします。
思い出に残ってるスポットは、師大夜市内のカフェ「ジャマイカ」かな。
有名観光地で言うと、101はすぐ隣の「象山」に登って、真横から撮影するのがツウなんです。
愛好家たちがものすごいマシンを持ち込んでる中、フィルム撮影にハマッてた私は1万円くらいのショボショボカメラで撮ったら、これが思いのほか出来が良くビル内に飾ってもらいました。
平渓は、元宵節の「天燈節」で有名。無数のランタンが夜空に舞う、そりゃもうキレイです。
ところが地元民が爆竹をぶら下げたり、装飾を付けたりするんで、装飾がほかのランタンに絡まって燃えちゃったり、爆竹が爆発しながら頭上に落ちてきたり、一変して阿鼻叫喚の世界に(笑)。中国文化って凄まじいなあ…と思ったものです。
アナログ世代の苦労
そうそう、中国台湾はピンインじゃなくてチュウイン(注音)を使うんですね。
私はチュウインを学ばなかったので、携帯の簡訊(短信、SMS)を打つのに苦労したわ~。
道行く人を捕まえて、「今から言うことを打ち込んでくれ」って頼むの。
今の留学生たちに、スマホのありがたみを知ってもらいたい!
海辺にある大学
オレが山東省煙台に留学したのは2005年頃。
当時通っていた大学の校舎は、黄海を臨む形で建っていて、まるで『ビバリーヒルズ青春白書』のようなロケーションだったぜ。
もともと日本人が少ないからって理由で煙台を選んだんだ。確かに日本人は少なくて、留学生の90%は韓国人だったな。
おかげで友達は中国人や韓国人ばっかり。毎日中国語を話す日々だったぜ。でも煙台は方言がキツくて、現地の人の言葉が全然聞き取れなかった。
この大学で中国語の基礎を勉強したけど、発音がなかなかできなかった。舌を巻けばいいとか、口をすぼめればいいとか、言われてもオレ不器用だから余計にできないんだよ。
でも、当時クラス担任だった隋先生のモノマネをしたら、いつの間にかちゃんと発音できるようになった。モノマネは一番の近道だな。
新入生歓迎イベント
一番印象に残ってるのは新入生歓迎イベント。日本人代表として司会を任されたんだけど、これがダメダメ。
台詞は忘れるわ、歩き方おかしいわで、舞台に出る度にみんなから笑われてた。授業のある日は、よく「好再来」っていう東北料理屋に食べに行ってた。
いつも11元の「土豆牛肉蓋浇飯」を食ってた。だから当時は体脂肪1ケタなんてもんじゃなかった。
あと、煙台は海鮮も有名さ。牡蠣とかホタテ貝とかをバーベキューしていた日々が懐かしいな。
もう卒業してかなり経つけど、同級生の何人かはオレと同じように中国で働いてる。これからもこの思い出を胸にしまいつつ、記事を書いていくぞ!
SARSで一時帰国
私が北京に留学したのは2001年8月と03年1月の2回、そう、03年はあの「SARS」が流行した年。
大学校内への出入りが制限、タクシーでは除菌ティッシュが配られ、店はほとんど休業、全員一時帰国――と大変だったけど、それが留学生同士の絆を深めてくれたんだ。
留学生が集う五道口
最初は1カ月の短期留学だったんだけど、当時、学校の前を馬車が走っててカルチャーショックを受けちゃった。
2回目の時はもう馬車はなかったけど、地下鉄も2~3路線しかなかったし、移動はバスか自転車かひたすら歩き。
タクシーも初乗り10元と安いから、夜みんなで飲みに行く時は使ってたわ。よく行ったのは、五道口と三里屯!
周りに酒豪が多かったせいか、誰かの誕生日に開くパーティーではテキーラやウォッカのイッキ飲みが始まるの。あの光景は凄まじかった…。
でも普段は学校の近くの餃子屋さんでたらふく食べて1人10元とか、屋台で羊の串焼きだったなあ。
当時は今みたいにスマホがあるわけでもないし、ネット環境も良くなかったから、パソコンはあんまり使ってなかったの。
でもその分、勉強もできたし友人と過ごす時間が増えた気がする。学校の毎回行事も楽しみで、最初に行ったのは「万里の長城」なんだけど、天気が良くて見晴らしがサイコ―だったわ♪
ほかにも寮仲間とはお国料理を披露し合ったり、夜通しトランプ大会が続いたり…国籍を越えて仲良くなれたのがイチバンの財産!
その時の友達とは、今でも繋がってるんだけど、みんな私を差し置いてめでたく結婚、パパやママになってるの~。私だって今年こそ、真っ白なウェディングドレス着てやるんだから!
上海パーティー・デイズ
高校生の時、映画『金田一少年の事件簿 上海魚人伝説』の舞台になっていた上海が割とイケているように思えて、留学を決めました。私はミーハーです。
そんな私が留学初期、夢中だったことはクラブ遊び。上海には当時、シン・ニシムラさんという日本人DJがいて、テクノ系のクラブシーンを盛り上げてくれていたんです。
シンさんが、石野卓球さんにデリック・メイ、ジェフ・ミルズなど、海外から超有名DJを招いてパーティーを開いてくれるもんだから、私の若き血潮はダンスフロアで飛び跳ねていました。
でも上海では、2001年頃からクラブの取り締まりが厳しくなって…。当時は茂名南路が夜遊び街だったんだけど、今は面影すら感じられません。場末感漂う茂名南路が懐かしいです~。
ちょい不便がいいんや
わてが留学したのは1999年と、2004年の2回。1回目は重慶市の外れにある北碚区、2回目は東北の錦州市。
どっちの街も〝ど田舎〟やから、日本料理店なんかあらへん。錦州の時なんて、和食を食べるのに、電車に2時間以上乗って、瀋陽に行かなあかんかったから、日本の味が恋しかったな。
だから、1年に1度、瀋陽で行われるHSKは「日本食や!」って、めっちゃはしゃいだわ。
留学生は、どっちも全部で10人くらいと少人数。でもラッキーなことに、韓国、イスラエル、ドイツ、ロシアと多国籍やったから、ビール祭りしたり、料理大会でお国自慢したり、他国の文化に出会えて、おもろかった。
また、当時は物価も低く、200元くらいでドラムセットが買えたから、毎日路上ライブしたもんや。学生がようさん集まって、大盛り上がりやったで~。
~上海ジャピオン2015年4月3日発行号