江南に広がる三国志スポットを巡りに行こう!

三国志熱沸騰中!
英雄の子孫が住む街へ

 時は3世紀。後漢末、動乱の時代に生きた英雄たちが、魏、呉、蜀の三国に分かれ天下に覇を争うその様子を描いた物語、『三国志演義』。
昨年から今年にかけて、『三国志』最大の戦いである「赤壁の戦い」を壮大に描いた、ジョン・ウー監督の映画『レッドクリフ』(中国題:赤壁)が世界各国で公開され、日本や中国では三国志熱がヒートアップ中だ!
 三国志と言えば四川の成都を思い浮かべる人も多いだろうが、上海から目と鼻の先の浙江省にも三国志に関連するスポットは存在する。
杭州から南西に車で2時間半のところに諸葛孔明の子孫が暮らす蘭溪の諸葛村があり、また、杭州と諸葛村の中間に、曹操の子孫の暮らす東図・上村と孫権の子孫の暮らす龍門古鎮があるのだ。江南に繰り広げられる子孫たちの三国志の世界を体感しに、取材班はその村々に赴いた。

白壁と黒瓦の見事な対比
孫氏は常に火計の訓練?

 昼過ぎに最初に訪れたのは、孫権の子孫の住む龍門古鎮。
そこは古鎮という言葉がよく似合う。
石畳がひかれ、江南特有の漆喰の白壁に黒瓦の建物が並ぶ街だ。入り組んだ路地を抜けると、橋の傍で2人の子どもが爆竹で遊んでいた。
小さい頃から火に慣れ親しむとは、さすがに赤壁にて火計を使って曹操を退かせた孫権の子孫だ。
 赤壁の戦いに想いを馳せつつ子どもたちを眺めていると、江南名物・臭豆腐の独特のにおいが漂ってきた。
三国時代当時にも、この〝くさうま〟料理があったのかは不明だが、孫権も食べたと思えば旨みも増す。
 揚げ臭豆腐をつまみながら散策を再開。
すると関羽を祭る「関帝廟」を発見した。
孫権の子孫の住む街なのに、宿敵とも言える関羽を祭るとはこれいかに! 
関羽を殺したのは孫権軍だから、孫権の子孫は関羽に祟られるのが怖いのかもしれない。
廟に入ると、待ち受けるはもちろん赤ら顔の関羽像。敵地たる孫権の子孫の村にある廟だけに、心なしか、関羽も不安げな表情に見える。
しかし、どんなに不安に見えようとも関羽は、今や商売の神様だ。
旅の安全と世界経済の危機脱却を祈願し、廟を出るのだった。
 思いがけず関羽にも会えて、得した気分で、この街のメイン観光地「孫氏宗祠」へ行くことに。
そこは孫氏の先祖を祭るところだ。
明・清時代に建てられたこの宗祠の中央の壁には、孫権の絵が飾られ、左右に周瑜、魯粛、呂蒙、陸遜の絵が並ぶ。
さらに奥に行くと、孫氏一族の位牌が掲げてあった。
その真ん中には、50㌢ほどの高さと、ほかの位牌より大きく、金色の飾りのついた孫権の位牌が飾られる。
どっしり構えたその位牌からは、呉の国を堅実に経営し、そして、子孫の暮らす龍門古鎮を今も見守る孫権の姿を垣間見た気がした。
 日も傾いてきたこともあり、後ろ髪を引かれつつも龍門古鎮とお別れ。
次なる目的地は曹操の子孫の住む村、東図・上村だ。

曹操の子孫はバスケ好き
宗祠の現状と曹植の生涯

龍門鎮からバスを乗り継ぎ、東図・上村へ。
車掌に目的地を告げると、畑の広がる田舎道で降ろされた。田舎道脇の細い道を歩くと、学校が見えてきた。
 校庭では、子どもたちが元気よくバスケットボールで遊ぶ。
映画『レッドクリフ』では、魏の兵士たちはサッカーに興じ、曹操はそれを楽しそうに眺めていたが、その子孫たちはバスケ好きなようだ。
 ふと校庭の奥を見ると廟らしきものが。
近づいてみたが、入り口は堅く閉じられ入ることが出来なかった。
どうしたものかと途方に暮れていると、深いシワの刻まれた、おじいさんが話しかけてきた。
 今年で御年77歳という曹おじいさんの話だと、学校脇の建物は曹氏の先祖を祭る曹氏宗祠で、入るには村の書記の許可がいるとのこと。
どうしても見学したいということを伝えると、書記の家に連れて行ってもらえることになった。
道中、おじいさんに曹氏宗祠以外で、曹操に関係するものがないか聞いてみる。
すると「わしがそうじゃよ。この村で苗字が曹の者はみな曹操の子孫じゃからな」と笑顔で答えが返ってきた。
曹操の子孫は、やはり曹操と同じく頭の回転が速い。
何かの建物を教えてくれると思っていただけに、曹おじいさんの上手い切り替えしに取材班も大笑い。
 書記の家に着くと、運良く書記が在宅していた。
曹操への熱い想いを必死に伝えたところ、曹氏宗祠に入れることに。
かつて宗祠では、年に幾度と祭祀活動を行っていたというが、1960年代に内部に掲げられた位牌や装飾品が破壊され、現在は無残な姿を呈するのみだった。
 歴史に想いを馳せ、内部を今一度眺めると、柱に「陳思」という文字を見つける。
陳思王と呼ばれし曹操の息子・曹植を思い起こし、彼の不遇の生涯と曹氏宗祠の現状が重ね合わさる。
 少しばかり物悲しい参観をし終え外に出ると、子どもたちが相変わらず笑顔でバスケを楽しんでいた。
なにやら、壊れたものはしょうがないだろと、曹操が豪快に笑い飛ばしているような気がした。
1日目はこうして終わりを迎えた。

巨大な孔明像がお出迎え
八卦の陣に迷い込む

2日目の目的地は、諸葛孔明の子孫1万人のうち約4割が住むと言う諸葛村。
諸葛孔明の子孫が浙江省に移り住んだのは、10世紀の宋の統一戦争による戦乱を避けるためだったと言われる。
その後、14世紀に、第28代目にあたる諸葛大獅が、今の諸葛村の基礎を作った。
 村には正午に到着。
まず、村入り口にドンと構える巨大な諸葛孔明像に挨拶を交わし、坂道を登る。
道端には諸葛旅館や諸葛家電城といった店舗が並び、諸葛姓だらけだ。
道をまっすぐ歩いていくと白壁の家と木造家屋に囲まれた池にぶつかった。
池端で洗濯をするおばあさんの隣で、おばさんが野菜を洗い、その向かいではおじさんが釣りを楽しむ…。
この生活感が、まさに〝生きている〟古鎮の証といえる。
 取材当日の天気予報は小雨のち雨。
どことなくノスタルジーを誘う、降雨直前の匂いが立ち込める中、散策を開始する。
すると、諸葛孔明の子孫による占いのお店を発見。
諸葛孔明の子孫ならズバリと未来を予想してくれるかなと思ったが、白ヒゲを生やした占い師が取材班を見て発した言葉が、次なる行動を決定づけた。
その言葉とは「留学生? 韓国人?」。
顔相占いすら外れているようでは期待は出来ない。その場をすぐに離れたのは言うまでもない。
 その行為が、諸葛孔明の逆鱗に触れたのか、大粒の雨がバラバラバラっと落ちてきた。
昼ごはんをまだ食べていなかったこともあり、雨宿りがてら腹ごしらえをする。
サツマイモで作ったモチモチの春雨料理「八卦春雨」とコクのある「地鶏スープ」、そして「饅頭(マントウ)」を注文。
中国の饅頭は中に餡のない蒸しパンだ。
諸葛孔明が発明したとされる饅頭を、その子孫が作り、自分が食べる。
そんな何でもないことにロマンを感じる。
そのロマンの味は、少しばかりしょっぱかった。



諸葛八卦村の由来
〝孔明のワナ〟にはまる

 食事を終えると、ちょうど雨もやんだ。
腹ごなしも兼ね、村の中心にあたる、陰陽太極図の形をした「鍾池」へ行くことに。
諸葛村は、諸葛孔明の考案したとされる陣形〝八卦の陣〟を呈しており、村は諸葛八卦村とも言われる。
この池からは8本の小道が放射状に広がり、建物が複雑に入り組み、村全体が迷路のようになっている。
 20分ほどあらゆる道を歩いたが、地図が間違っているのか、池らしきものが見えてこない。
それどころか人っ子ひとりいない。
どうやら迷子となったようだ。
『三国志演義』で諸葛孔明の仕掛けた「八陣図の計」(八卦の陣法)にかかって死に掛けた、孫権の配下・陸遜の気分がよく分かるというものだ。



江南唯一の孔明記念堂へ
孔明の教えを守る子孫

 さらに歩くと、いつの間にか〝孔明のワナ〟から外へ抜け出せた。
だが、鍾池はどこに…。
池に行くのは諦めようかとも思ったが、たまたま村民の結婚式に出会い、そのめでたさに賭けてみることに。
花嫁と花婿の通った道を駆け上がると、今度は迷子にならず、たどり着いた。
 その池の傍には、「大公堂」という、江南唯一の諸葛孔明記念堂が建つ。
この大公堂には、諸葛孔明が息子・瞻に向けて書いた『誡子書』が掲げられる。
「心穏やかで、おごらず、謙虚な心で学び続け、自分を磨き続けよ」といった内容の書だ。
 諸葛村は有名な観光地となったが、開村から600年以上経つ今、未だに当時の街並みを残す。
孔明のような質素な生活が垣間見られるのは、この教えが守られているからに違いない。
 「死せる孔明、生ける子孫を走らす」だなと感慨にふけっていると、杭州へ帰る時間となった。
今回訪れた街と、そこに住む英雄の子孫たちはひと言で言うとみな「素朴」だった。
その素朴な彼らを通し、三国志の英雄がより一層身近に感じられるようになったのだった。

~上海ジャピオン2月27日号より

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