上海の街中を注意して観察してみると、若者、年配者問わずヒゲを蓄えている人が少ないことが目につく。
『三国演義』や『水滸伝』の主要人物や時代劇の主人公たちはあんなに立派なヒゲを生やしているというのに、なぜこれほどにヒゲを生やす人が減ったのか?
古代中国でヒゲは男の証
その理由を探るため、まずは中国のヒゲの歴史を辿ってみることに。古代中国では、儒教の道徳観により親からもらった身体は髪の毛1本粗末にしてはいけないという教えがあった。
そのため、この時代の官僚たちはヒゲを生やすことで自らの道徳心を体現していた、という説がある。
一方、皇帝に仕えるために去勢を行った「宦官(かんがん)」たちは、男性ホルモンを失うため、ヒゲが生えなくなる。
つまり当時は、ヒゲを生やしていない=宦官=まともな人間ではない、という考えから、ヒゲを生やすのが男の証であり権威を示すものであった。
「老愛胡須少愛髪(ヒゲにこだわり髪はどうでもよい)」という名言があるほど。
特に小説『三国演義』を見てみると、どの人物も特徴として、ヒゲに関する描写が重要なポイントを占める。
例えば張飛は「燕頷虎須(アゴが張り虎のように威厳のあるヒゲ)」、関羽は「身長九尺、髯長二尺(身長約210㌢、ヒゲ約45㌢)」、曹操は「細眼長髯(細い目に長いヒゲ)」、孫権は「碧眼紫髯(青い目に紫のヒゲ)」など、それぞれにヒゲの描写が異なる。
変化するヒゲスタイル
さらには、時代によって流行のスタイルも変化。春秋・戦国時代は菱形のヒゲ、漢の時代は顔全体を覆うヒゲ、宋代には京劇などでよく見かけるアゴと両耳から3本長く伸ばしたヒゲ、明代は長いヒゲが好まれた。
そのほか、唐、宋代の詩人たちはヒゲを白く染め、撫でながら詩を詠んだという記述も残っている。
ヒゲの生やし方にもそれぞれ意味があり、「一文字ヒゲ」は結婚して所帯を持っていること、「八文字ヒゲ」は社会に出て働き始めたこと、もしくは子を持つ父であること、八文字とアゴにヒゲを蓄えた「子孫ヒゲ」は孫がいることを表す。
このように、ヒゲは歴史とともに変化を遂げ、発展してきた。しかし、西洋文化が伝わるにつれ人々の考え方も変わっていき、頬やアゴのヒゲは衰退、ヒゲをキレイに剃るのが習慣化されてきた。
今ではヒゲ=不衛生とのイメージが持たれ、あまり女性ウケが良くないそうだ。
次ページからは、ヒゲが褒め称えられてきた中国の古人とそのエピソードを紹介していく。
ヒゲを語るうえで外せないのは、『三国志演義』にも出てくる後漢末期の将軍、関羽(かんう)。
蜀漢の創始者・劉備に仕え、その人並み外れた武勇と義理を重んじる姿勢は、敵対する曹操さえも称賛したほど。アゴと頬に見事なヒゲを蓄え「美髯公(びぜんこう)」と呼ばれた。
この関羽のヒゲにまつわる、こんなエピソードがある。曹操が関羽をもてなした時、ヒゲについて話題を振られた。
関羽は「秋になると500本はあるこのヒゲも3本、5本と抜け落ちます。そこで冬には黒い紗の布袋で包み、抜け落ちないようにしております」と答えた。
後日、曹操は綾錦のヒゲ袋をこしらえ関羽に贈呈。翌日、このヒゲ袋が献帝の目に留まり、その場で外させたところ、ヒゲは下っ腹まで届く長さであったことから、献帝は「まさしく美髯公よのう」とひと言。
以来「美髯公」が彼の通称となった。
東晋・南朝宋の山水詩人、謝霊運(しゃれいうん)。六朝時代を代表する門閥貴族・謝氏の出身で、祖父に東晋の名将・謝玄を持つ。
聡明で様々な才能に恵まれたが、性格には傲慢なところがあり、大貴族出身であったことも災いして後に刑死している。
この謝霊運のヒゲにまつわる物語が宮廷ドラマ『唐宮燕之女人天下』の中で描かれている。ある時、宮廷内で草相撲大会が開かれることに。
娘を勝たせたい皇后は、丈夫な草を探すよう、宮女たちに命じる。
1人は農家の縄の材料に使われている龍須草を勧め、もう1人は最も柔らかくて丈夫なのは人の毛だと説明し、寺に謝霊運のヒゲが保存されていることを伝える。
それは謝霊運が処刑される前に自ら切り落とし、住職に贈ったものだった。それを聞き喜んだ娘は、褒美としてかんざしを与えた。しかし、草相撲にヒゲを使うのは如何なるものかと…。
続いては北宋末の政治家・軍人の童貫(どうかん)。彼がその名を残した理由の1つは、宦官の中で唯一ヒゲが生えていたという点だ。
通常、宦官は去勢するとヒゲが生えなくなるものだが、童貫は筋骨隆々とした体躯に加え、十数本と少なくはあるが、手入れされたヒゲを蓄えていたそうだ。
『水滸伝』では悪役として登場する童貫。史実においても悪逆非道の人物で、北宋の悪臣「六賊」に数えられる。1123年、金国との戦いでは、敵前逃亡した挙句に捕まり、斬首されて死んだ。
しかし、童貫の首は鉄のように固く、門の敷居を断頭台にしてやっと切り落とすことができたという。
同じく『水滸伝』から。その名も「朱仝(しゅどう)」、物語上の人物で実在はしていない。
『三国演義』の関羽にソックリな容貌に描かれ、八尺五寸(約255㌢)の大男で、その身長に対し一尺五寸(約45㌢)の長いヒゲを生やしていた。
近代に入ってからのヒゲの移り変わりについて言及するうえで、まず名が挙げられるのは、清代末期の軍人・政治家の曽国藩(そうこくはん)だろう。
当時、庶民がまだ中国服を着ている頃、軍人はワイシャツを着こなし西洋文化をいち早く取り入れていた。その中でも最も特徴が表れたのがヒゲである。
もともとヒゲは軍人の誇りだった。『三国演義』の関羽や張飛に始まり、それは19世紀末まで続く。
清の末期頃になると、そのヒゲ文化も次第に衰退、アゴヒゲを生やす人は減っていき、鼻の下部分の口ヒゲが主流となった。
また曽国藩は、人相学についても言及する。彼の訓えが綴られた『曽国藩家書』内では、眉毛とヒゲは剃ってはいけないとし、特に晩年にかけてヒゲは蓄えるべきと説いた。
肖像画や写真に残された彼の姿は、どれも長いヒゲを生やしており、近代の「美髯公」と呼ぶに相応しいだろう。
ヒゲが似合う中華スター
女子ウケは良くないと言われているヒゲ。しかし、ことイケメンスターのヒゲは別物のようだ。
まずヒゲが似合うスターを語るうえで欠かせないのがウー・シウポー。2013年公開のラブロマンス映画『北京遇上西雅図』でブレイク、そのダンディでセクシーな姿に世の女性はメロメロに。
また、中国香港出身で、往年の二枚目俳優、アンソニー・ウォンやチョウ・ユンファの渋いヒゲもカッコイイと人気だ。
そして『戦場のレクイエム』や『智取威虎山3D』などで主演を務めたチャン・ハンユーも要チェック!
さらに若手を代表するヒゲ男子はチン・ハオでキマリ。少年のようなあどけなさとヒゲが魅力の彼も今年3月結婚、ついに1人の女性のものに…。
なお、日中で活躍する金城武のヒゲも、品があって男らしいと評判。
~上海ジャピオン2015年6月12日発行号