国慶節の旅 悠久の歴史が生んだ浪漫の数々②

仏教に帰依した女帝

690年、妾のひとりだった少女が玉座に上った。彼女は生後10日余りの我が子を絞め殺し、その罪を皇后に押し付けて失脚させ、皇帝が目をかける女性を次々と毒殺した。陰謀と嫉妬が渦巻く宮廷の世界を制し中国史上唯一の女帝となった彼女こそ、稀代の悪女と知られる則天武后である。

 則天武后が権力を握った時代、宮廷では悲惨な粛正が度々繰り返された。ところが皮肉にも、彼女の政治手腕により民衆の生活は安定した。彼女は仏教に重きを置いた。長い間、儒教を通して民衆に根付いた男尊女卑の思想を改めさせようとしたのだ。彼女は自らを弥勒菩薩の生まれ変わりと称し、全国の各州に仏経典を収蔵する「大雲寺」の建立を行うと同時に、仏教彫刻の名匠たちを呼び寄せ、各地に仏像を作らせた。5世紀末から始まり、以後約400年にも及ぶ龍門石窟の造仏も、このときが絶頂期を迎えるのだった。

 このとき彼女は、彫刻家たちに自分をモデルにした仏像を龍門石窟に彫らせた。高さ17メートル、約10万体の仏像の中でも一際目を引く「盧遮那仏(ルシャナ仏)」がそれである。彼女は今でも、凛とした知的な顔立ちで龍門山の岩壁に佇んでいる。

龍門石窟
 敦煌の「莫高窟」、大同の「雲崗石窟」と並ぶ中国三大石窟のひとつ。洛陽市の南13キロに位置し、伊河の岸壁に約1キロに渡って、2000を越える石窟が蜂の巣のように彫られ、仏像の数は約10万体にのぼる。代表的な石窟は、龍門石窟最大級の大きさを誇り「盧遮那仏」が安置されている「奉先寺洞」と、天井に大きな蓮の花が刻まれた「蓮花洞」。2000年、世界文化遺産に登録された。

アクセス
龍門石窟は河南省洛陽市の南12キロに位置する。上海から洛陽までは飛行機で約2時間で、航空チケットの相場は片道1000元(税込み)程度。但し1日1便のみの運行のため、上海からまずは鄭州に入り、バスや汽車で洛陽まで行くという方法もある。この場合、上海から鄭州までは飛行機で約1時間半で、相場は片道910元(税込み)程度。鄭州から洛陽まではバス・汽車ともに2時間半。洛陽から石窟までは路線バスで約40分。また石窟を含む現地発のツアーもある。入場料は龍門石窟、白園(白居易墓)、香山寺、3カ所込みで80元(変動の可能性あり)。

妖怪を退治した和尚

三つの大河が合流する凌雲山。この地にはひとつの伝説があった。舟でそこを通ると妖怪が引き起こす巨大な渦潮に飲み込まれるというのだ。

 713年、則天武后時代の末期、民衆を救うべく、この妖怪退治に名乗りをあげたのが海通和尚だった。彼は仏像を造り、仏様の力でこの妖怪退治を決意した。仏像作りの資金集めのため、鉢を手に持って各地を廻ること20年間余り。ところが、ようやく着工というところで問題が起きた。地元の役人が賄賂を要求してきたのだ。従わなければ工事は中止。だが、彼は「金の変わりにこれを持っていけ」と自分の目玉を抉り取って役人に突きつけ、仏像作りの資金は一切渡さなかった。約90年の大工事を経て、仏像が完成すると、船を飲み込む渦潮も不思議となくなった。

 しかし、その実は仏像を彫る際に削られた岩石を河床に捨てることで、河の流れを緩やかにした、海通和尚の巧みな治水技術によるものであった。彼は完成を待たずにこの世を去ったが、その功績を称えて建てられた海通塑像は、今日でも大仏の背後にある「凌雲禅寺」で大河に流れを見守っている。

楽山大仏
四川省楽山市の郊外の凌雲山にある世界屈指の磨崖仏。この仏像は弥勒菩薩の座像で、高さは71メートル、顔の長さ14・7メートル、肩幅24メートル、「奈良の大仏」の約5倍の大きさを誇る。仏像自体にも耳の穴などを利用した排水設計が施されており、これが今日までその姿を保ってきた秘密とも言える。完成当初は全身を金箔と綺麗な装飾で飾られ、13重の木造楼閣で覆われていた。1996年、峨眉山とともに世界自然文化複合遺産に登録された。

アクセス
楽山大仏は四川省成都市の南約160キロにある楽山市に位置する。まずは上海から飛行機で成都まで移動する。約2時間40分で、チケット相場は片道1720元(税込み)程度。成都からは楽山市までバスが運行されている。片道約2時間、運賃は約40元。成都近郊のもうひとつの見所、峨眉山と一緒に周る現地発ツアーも多数開催されている。また、楽山大仏見学には実際大仏に登る徒歩コースと大仏全体を眺める遊覧船がある。遊覧船は1時間1便程度。徒歩の入山料は70元、遊覧船は30元ほど。

楼蘭の王女

 紀元前―西域にあるオアシス都市・楼蘭(ろうらん)に、ひとりの美女がいた。彼女は、楼蘭の王女であり、国民にとって誇りでもあった。鼻筋の通った彼女の顔には笑顔が絶えず、透き通るような涼しい瞳で、いつも砂漠のかなたを見つめていた―。

 1934年。スウェーデンの地理学者・中央アジア探検家であるスヴェン・ヘディンによって、楼蘭の王女は、美しいミイラとして、再び、その姿を、歴史の表舞台へと見せることになる。ヘディンは、その著書『さまよえる湖』で、次のように記述している。

「我々は頭が隠れている部分を取り除けた。そして今我々は見た。美わしさ限りなき砂漠の支配者、楼蘭とロブ湖の女王を。
 うら若い女は突然の死に見舞われ、愛する人々の手で経帷子(きょうかたびら)を着せられ、平和な丘の上に運ばれて、遥か後代の者達が呼び醒ますまで、二千年近くの長い眠りに憩うていたのである。
 顔の皮膚は羊皮紙のように硬いが、目鼻立や顔の輪郭は長い歳月にも変えられずにいた。彼女は殆ど落ち窪んでいない眼の上に瞼を閉じて横たわっていた。唇の周囲には幾世紀もの間消えずにいた微笑が今もなお漂っており、この神秘な存在をして一層可憐な魅力深きものたらしめている。
(中略)
 彼女は、匈奴やその他の蛮人達と戦うために出かける楼蘭の守備兵の行進を見、射手や槍兵達を乗せた戦車を見、楼蘭を通ったり其処の宿屋に住んだりした大隊商隊を見、また支那の高価な絹の梱(こり)を『絹の道』を通って西方へ運ぶ数知れぬ駱駝を見たに違いない。そして彼女は確かに恋し、又恋されたに違いない。若しかすると恋の悲しみのために死んだのかも知れない。しかしこれらの事はすべて知る由もないことである―。」

 楼蘭は、西域にあったオアシス都市のひとつである。タクラマカン砂漠に囲まれ、近くには、今では枯渇した幻の湖・ロプ・ノールがあった。都市の住人たちが、具体的に、どのような民族で構成されていたのかは謎のままだが、中原を中心とした漢民族とは異なる民族であったことだけは、残された資料から明らかになっている。チベット、モンゴル、トュルク、イラン、インド……。紀元前当時から、西域には、多くの民族がいた。

 ヘディンの見つけた女性のミイラが、実際に、楼蘭の王女であったかどうかは、はっきりとしていない。ただ、砂漠の中で見つけた美しい女性のミイラを前に、当時、老年に差し掛かっていた探検家・ヘディンが、ロマンティックな想像に駆られても不思議はない。なぜなら、多くの民族とその国家・都市が栄枯盛衰を繰り返してきたシルクロードには、時代を越えて、訪れるものを魅了する浪漫が、歴史に埋もれた多くの謎が、残されているからだ。

(文中括弧で括ったヘディングの記述は、井上靖著『楼蘭』新潮文庫より引用した)
                                                                 写真提供:Imiland

シルクロード
本来は、中国と地中海世界の間の歴史的な交易路を指す呼称であるが、それの通過する地域、とりわけ中央アジアを指す場合にも用いられる。その場合、中国国内では、カシュガルやウルムチなどのある新疆ウイグル自治区が有名。ウイグル族のほか、漢族、カザフ族、キルギス族など様々な民族が居住している。
アクセス
上海から新疆ウイグル自治区の区都・ウルムチまでは、飛行機で約5時間。航空チケットの相場は片道で2910元(税込み)程度。上海の旅行社でもシルクロード旅行を扱っているところは多く、限られた時間内で効率よく回る場合はこちらがオススメ。天山山脈を境に北と南に分かれる「天山北路」「天山南路」の2つと、タクラマカン砂漠の南を行く「西域南道」の3つのルートがある。冬入りの早い地域なので、10月であれば西域南道への旅行がメジャーとなる。約500キロに及びタクラマカン砂漠を縦断する砂漠交路も観光の見どころ。

~上海ジャピオン8月18日発行号より

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